2024年1月27日(土)に開幕する、札幌演劇シーズン2024-冬。
弦巻楽団『ピース・ピース』、OrgofA『Same Time,Next Year−来年の今日もまた−』、THE36号線『大きな子どもと小さな大人』と、過去に好評を得た“面白さ保証付”の3作品がラインナップされています。
作品のことをもっと知っていただけるよう、参加3団体がお互いの脚本を読み、感想を書き合いました。
過去の上演を観た方も、これから観る方も、劇のイメージを膨らませながらお楽しみください!
弦巻楽団『ピース・ピース』脚本の感想
舞台には3人の女優。かわるがわるそれぞれが「母」について語り、少し奇妙な、しかしありふれた母と娘の姿が描かれる。
彼女たちの口から語られる「母」の姿は、『冷たい女』、『弱い女』、そして——。
「母」について語り、同時に「母」を演じる3人の女優。
母として、時に娘としてそこに現れる彼女たちの姿から、母から娘へ引き継がれる祈り、願い、あるいは呪縛を描きます。モノローグのような、ダイアローグのような、そこにあるのは不思議な心の安らぎ。
OrgofA代表
飛世早哉香
いただいた脚本を一気に読んだ。
この脚本を読んだのは稽古場に地下鉄で向かう途中だったのだけれど、読むのを止めるのが惜しくなり、降りたホームのベンチに座り込み一気に読み切った。
それほど面白くて私自身に一気に刺さりこんだと思う。
これは「母と娘」の物語だ。
それも一つではなく三つの「母と娘」の物語。「娘」から見た「母」のお話。
私の話で申し訳ないのだが、同性の親というのを特別に感じているのは私だけだろうか?
私の母はなんというかすっごい看護師なのだが(このすっごいの意味は色々あって書ききれない)、私の小学生の時の夢は看護師だった。
でも正直、看護師になりたかったわけではなかったと思う。
その証拠に実際大人になった私は看護師とは無縁の俳優という職業をやっている。
決して血が苦手だったとかそういうわけじゃない。
看護師になりたかった理由は簡単で、私が「お母さんみたいな看護師になりたい」と言った時の母の嬉しそうな顔を見たから、だ。
だから私の小学生の時の夢は看護師だったんだろう。
私にとっては「母」はすごく特別な神様みたいなもんだ。「母」は私の行く末を映している鏡のように感じていたんだと思う。だから時々凄く好きで、時々凄く憎たらしくなる。
私と母の間には、一方的ではない複雑な思いがあった。
というか今もあるんだと思う。
この神様が自分と同じ人間だと言うことを実感した時に、やっと娘は母と対等に話せるのかもしれない。
そんなこんがらがった娘から見た母への感情や状態をこの「ピース・ピース」は見事にすべて書いている。この「すべて」というのは、本当に「すべて」だ。まるで小説を読んでいるように娘の感情や心情もこの脚本では言葉になっている。劇場で俳優たちの体を通った言葉をキャッチする時、きっと自分の中の琴線に響く部分があると思う。
作中に出てくるような、「母と娘」という関係性に自分があるという人はもちろんだが、それだけでなく親を持つ子供達に、そして親になった子供達に、ぜひ観て欲しい作品だ。
THE36号戦『大きな子どもと小さな大人』出演
かとうしゅうや
1月27日から始まる弦巻楽団「ピース・ピース」に台本はない。厳密に言えばある。あるけど、ほぼない。あるのは三編の小説。入手した台本の冒頭はこうだ。
女1、本を開き、次の小説を読み始める。
朗読に合わせ、女2は「母」を、女3は「娘」を演じる。
そのあと「母は冷たい女だった。」とつづく。文章は一人称で書かれ、ずっとつづく。
布団に入って、ソファに寝転がって、トイレに持ち込んで、地下鉄や JR のなかで文字を目で追う。絵が、映像が、表情が浮かんでくる。本を閉じても浮かばさったものは失われない。読者ひとりのなかにだけ在って共有はできない。できないから「あのねっ! この本がねっ・・・」って、そういう “ひとりのため装置” を人が集まってどうこうしようっていう。なまらクレイジー。
朗読と、俳優と、どちらが先に動き出すだろう。俳優が先なら、まずそちらに意識が向く。俳優たちの存在を先に意識させて、ガラ空きになった耳に声(朗読)が注がれるとしたら。右、左、右、左。
2人の俳優と1人の朗読者は先頭を交代しながら、協力し合って進んでいくのかもしれない。雪山登山のように。
小説版は栞をはさむことなく一気に読ませる。
物語を追うことより、舞台上の3人がどう始めるのか。劇場版はそこに注目している。
OrgofA『Same Time,Next Year-来年の今日もまた-』脚本の感想
カリフォルニア、海辺のコテージにて。
ドリスとジョージはそれぞれの旅の途中に出会い、その日限りの一夜を共にする。
ふたりにとって、生涯初めての浮気であった。翌朝、後ろめたい気持ちを抱えながらも意気投合したふたりは、一年に一度おなじ日に、また会おうと約束する。
1951年から25年に渡って重ねた逢瀬。ドラスティックに変容するアメリカ社会を背景に、むき出しの人生が描かれる。平凡と非日常、束縛と自由、欲望と後ろめたさ。ふたりがたどり着いた明日とは。
弦巻楽団代表
弦巻啓太
25年の間、定点で観察された男女。
結婚している身でありながら、どうしようもなく惹かれ合う二人は一年に一度、同じ部屋にやってきて、愛を確かめ合う。
「愛を確かめ合う」?
5年おきに描かれる場面は、彼ら自身の変化や成長だけじゃなく、その時代のアメリカ社会の変化を物語る。まだ若く青春を感じさせる冒頭から、場面が進むごとに徐々に二人は変質していく。知的に。社会的に。家族構成も変わっていく。抱えるものも増える。捨てられない物も増える。
しかしそれでもまた翌年、二人は同じ部屋にやってくる。
お互いの伴侶について話し、子供たちについて話し、政治哲学について話し、二人はお互いの良き理解者となっていく。身も心も。身も心も?ちょっとちょっと。
褒められた関係ではない。結局は不倫である。
友情と呼ぶにはずるく愛情と呼ぶには身勝手な、成熟からは程遠い二人。
「愛を確かめ合う」?
そこで確かめられているのは果たして「愛」なのだろうか。
部屋の外には海が広がっている。
人生という海だ。
穏やかな日もあれば嵐の日もある。
海に翻弄される二人は錨をおろすように逢瀬を重ねる。
変わらない何かをそこに探して。
広い海の上で迷子にならないように。
その姿はとても哀しく、切実で、とても優しい。
愛とは呼べないかもしれないが、とても優しい。
観劇した人はきっと思うだろう。
自分のパートナーにこんな相手がいたらたまったものではないと。
と同時に、この二人と友人になりたいと。
THE36号戦『大きな子どもと小さな大人』出演
かとうしゅうや
真昼なのに昏い部屋(江國香織 著)のどこかに “やだ、この二人、やりたがってる” って書いてあって。カーッときたのを覚えている。
「Same Time,Next Year -来年の今日もまた-」は、やりたがっている二人の話だ。それと、これは大事なことだから言っておこう。やった後の話でもある。
終わったらすぐ部屋を出て行きたい流派があることは知っている。どちらの流派の方にとっても本作は気付きがあるはずだ。2ピースのショートケーキのビフォーとアフタア。
期待をどこに隠せるか。溜めておけるか。目玉の奥、耳の裏、舌の下。俳優それぞれの持つ固有の隠し場所に注目したい。目には映らない期待が人間ごしになら、そのシルエットが見えるはずだ。
それにしても、いいよな。そこで待ち合わせて、そこでさよならなんて。開演時間に来て観て、終わったらさよならなのは演劇もそうだけれど次は約束されていないものね。トクベツな彼らを白い目で見たり、うらやましがったりしよっ と。
THE36号戦『大きな子どもと小さな大人』脚本の感想
とある集合住宅の一角、部屋いっぱいある体の大きな子どもが座っている。父は流行病を患い熱に浮かされながら思い出を彷徨っている。
子どもが生まれた時のこと、まだ小さな頃のこと、発達に遅れがあると聞かされた時のこと、そして、離れ離れに暮らす妻のこと…。
「普通」とはなんだろうか。
柴田智之が障がい児のデイサービス施設で働いてきた経験を元に描く、
家族の物語。
弦巻楽団『ピース・ピース』出演
佐久間優香
私とA太郎くんとの出会いは脚本を読むより少し前、演劇シーズンのポスター撮影の日のこと。蹲る大きな身体。遠目からでもわかる圧倒的な存在感に少々気圧されて、おぉ。と思わず声が洩れたことを覚えている。
それから数日後に脚本をいただき、出会い直し。物語の中で彼の父から他己紹介を受けて、あぁ、なるほど。と納得した。人というものは他人についてある程度を理解すると、今度は距離をはかりはじめる。
この作品の父と息子もそうだと思う。物語は二人が暮らす一室から始まり、時は回想によって子の出産時にまで遡る。親子であっても、別々の人と人であることには変わりないから、それはある種の出会いだ。父は息子と向き合うために試行錯誤し、時には教科書を開いて勉強もする。
だって、わからないから。わからないまま放っておいては、危ないこともあるから。飛んでくる危険に対処できるよう、誰かがぶつからないよう、親は、大人は、気を張るし、気を張っていれば身体は疲れる。へとへとになる。たとえ子供が相手でも。実の息子であっても、当然に。そんな事情などお構いなしに流行病は蔓延する。
人生は続く。
だから、大人は時折思い返すのかもしれない。過去の出来事を、自分のことを。あるいは熱に浮かされながら、夢の中で無意識に俯瞰を試みるのかもしれない。舞台を通して観たいと思うのかもしれない。もう少しなんとか、どうにかならないものかと願って。
……と、ここまでが私とこの作品との今の距離の書きとめだ。今度は劇場で、演劇のかたちで二度目の出会い直しをしたならば。そのときにはいったいどんな距離になっているだろう。
願わくば、たくさんの方々に出会っていただきたい作品です。
OrgofA代表
飛世早哉香
台本をもらったときの印象は、かなり短い、だった。ページにすると24ページ。「え?こんなに短いんだ」と思って読み始めたが、私はすぐに後悔した。
舞台はとある家族の部屋を起点に描かれる、その家族に関わる人々の話だ。家族に子どもが生まれ育っていくなかで、その子には発達の遅れがあるとわかる。
この作品はとても「舞台的」だ。舞台でしかできない手法を多く使い、試行錯誤をしていく。生演奏があり、時間を遡り、狭い劇場内で電車が走り、心が見える。書かれているト書き(せりふ以外の、行動やシーン設定の説明書き)はどれも、「どうやって表現するんだろう?」と思うものばかり。でも「こんなことが出来たらいいなぁ」の塊だ。俳優たちの足音、息遣い、音楽の振動すら想像させられる。 とにかく、この台本を読んでいるとワクワクする。これが舞台上でどうやって、人間たちによって創られて届くんだろうか?
あるシーンで手が止まった。目が離せなくなって、心がギリギリと音を立てた。それは家族のシーンではなく、公園で他人と関わるシーンだった。辛辣な言葉を投げかける他人の振る舞いに、この国の不寛容さが浮き彫りにされる。傷つけている自覚のない、正義のふりをした悪意が見事に描かれていた。瞬間、この舞台が私の生きる社会と繋がって、他人事ではなくなる。
「私だったらどう言えただろうか?」
「言い返すことはできただろうか?」
今まで台本を読んでいただけの私も、途端に「小さな大人」になる。
「大人」はいろいろと気にする。「大人なんだから~」にはじまる様々な言葉に雁字搦めにされていく。「大人になんかなりたくな~い♪」という某企業のCMソングは、大人たちの切実な叫び声だったのかもしれない。
私、観終わったあとに、少しだけ新たな視点でこの世界や社会を見れる舞台が好きなのです。
楽しかったー!面白かったー!の先で、今まで意識したことのない場所や物事にそっと光があたる。今作は確実に、そういう作品だと思う。 実際に劇場で私も観劇したい。その瞬間に立ち会いたい。
そして多くの、「小さな大人」になってしまった人に見てほしい。
札幌演劇シーズン2024-冬は、2024年1月27日(土)より開幕です。冷たい風でこわばった心と身体をやさしく溶かすような3作品。
ぜひ劇場に足をお運びください。
札幌演劇シーズン事務局
TEL 011-281-6680(ノヴェロ内 平日10:30~16:00)
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