札幌演劇シーズンのレパートリー作品に選ばれ、2019-夏での上演が決まった風蝕異人街の「青森県のせむし男」。
開幕に先立ち、こしばきこう(劇団風蝕異人街主宰)さんと山口拓夢(札幌大学教授)さん に、作者・寺山修司について語っていただきました。
没36年を経たいまも、国内外のクリエーターたちに影響を与え続ける寺山修司とは何者か?夏のシーズンの予習として、ぜひご一読ください!
寺山は、かわいくて、おちゃめで、いたずら者で、嘘つき。
こしばきこうさん(以下、こしば) 本日は「寺山修司を語る」と題して、寺山修司とはいったい何者なのかということを、札幌大学教授の山口拓夢先生と話していきたいと思います。寺山修司はなかなかとらえきれない人ですが、山口先生は寺山をどうとらえているのでしょうか。
山口拓夢さん(以下、山口) 寺山修司とは何者か…。端的に言えば、寺山修司というのは「変わらない現実」からの突破口なのではないかと思っています。政治も社会も、いろいろなものが行き詰っている現実、そうした「変わらない現実」に対する突破口としてのヒントが、寺山の演劇や言葉に、たくさん詰まっていると思っています。
「惰性化した日常」、「変わらない現実」をどう「見慣れない風景」に変えていくのか。そういう見方で寺山を見たとき、彼は無尽蔵にさまざまなものを我々に提供してくれる人なのだと思います。それは俳句にはじまり、短歌、詩、ラジオドラマ、演劇、映画と、万能です。
ただ、他人の作品をいじって、ちょっとだけ盗む癖(笑)…みたいなところもあって、そこがかわいいというか、おちゃめというか。寺山にはそんないたずら者という部分があるのですが、ただのいたずら者ではなく、時代をひっかき回し、アジテーションし、挑発して、既成概念をひっくり返すようなところがたくさんあるのではないかと思います。
そして、寺山という人は非常に嘘つきですね(笑)。自伝をいくつも書いていますが、自伝によって言っていることが食い違っていたりする。ある自伝では「お父さんは首を吊って死んだ」と書いていますが、それは嘘。「アル中で死んだ」というのも嘘。お母さんについてもいろいろな嘘をついていて、話を盛っている。非常に大げさに言う癖がある。
こしば 寺山は15歳か16歳のころから、お母さんが死んでしまったという短歌や俳句をつくっていますよね。
山口 「亡き母の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ」という歌があるのですが、実はお母さんは生きている。
(会場爆笑)
こしば 同級生の中には寺山のお母さんが本当に死んでしまったと思った人もいたらしいですね、当時は。
山口 ただ、お母さんについてはこだわりがあって、それが寺山演劇の核になっている。愛と憎しみが混在している。言ってみれば、地獄と極楽の母胎に引きずり込むようなところがあり、そこが魅力でもあり、面白いところなのではないかと思います。
短歌も天才です。人の短歌をいじるというところも含めて天才です(笑)。寺山に「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙かぎつつ帰る」という歌がありますが、これは「わが天使なりやおののく寒雀」という西東三鬼さんという人が書いた俳句を使って、自分の短歌をつくったもの。日本の正当な伝統としては本歌取りというのがあるので邪道ではありませんが、批評家からは数限りなく文句を言われていたようです。
こしば 皆さんが知っている「書を捨てよ 街に出よう」というのも、うまい題名だと思いますが、これもフランスかアメリカの小説か何かのタイトルの一部をとったもの。絵画で言うところのコラージュという手法になるのかもしれませんが、寺山の場合は言葉を取ってきて、貼り付ける。うまいなあと思いますね。
山口 寺山の一番有名な短歌に「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という歌がありますが、実はこれももとの歌があり、富沢赤黄男さんの「一本のマッチをすれば湖は霧」という俳句。
それを上の句に使って、下の句にダメ押しで「身捨つるほどの祖国はありや」とつけた。でも、つけたことで各段と歌としては良くなっている。「この部分があるからこの句はかっこいいんだ」みたいな。レベルがワンランク上がるんですよね。盗作と言ってはいけないけれど(笑)…そういう本歌取りということをよくやっています。それも含めて天才ですね。
寺山は、突破口であり、起爆剤であり、台風の目であり、バロック。
こしば 僕は札幌で長く芝居をやっていますが、シェイクスピアをやっている人に「どうしていまシェイクスピアなの?」と聞く人は誰もいない。音楽でも「どうしていまモ-ツァルトなのか?」と聞く人はいない。でも20年前からそうなのですが、寺山をやると必ず「いまなぜ寺山なのか?」と聞かれるわけです。
5年くらい前に札幌で寺山をやったときは、いま青森県の寺山修司記念館で館長をやっているが佐々木英明さんから「どうしていま北海道で寺山なんですか?」と聞かれました。必ず聞かれるので、僕は「寺山はバロックなんだ」と言っている。
バロックというのは「歪んだ真珠」という意味。バロック音楽のバロックですね。ルネサンスからの正統派のものや既成のものを壊して自由奔放にやっていくという意味があります。
だから寺山のやっていることをバロックであり、世の中が、どこかヤバイなあとか、きな臭いなあ、というときに寺山は出てくる。僕はそんな感じがしています。
山口 寺山は、閉塞状況を打ち破る突破口というか、起爆剤というか、台風の目というか。そんな存在ですね。
彼は「変わらない現実」を突破するための武器として、母との葛藤、恐山、説教節、見世物といったフォークロアを自在に用いながら、嘘で世界を見慣れないものにしていく技術を非常にたくさん持っていると思います。
特に母親に対するこだわりは強く、たぶんトラウマとしての母体験がある。母恋しの部分と、年を取ってからは母親がつきまとってきて離れないという状態があって、母恋しと母を捨てたいという2つのトラウマがあり、それを虚構の中でいろいろな形で反復することで、実は寺山自身が救われていたのではないかという気がしています。
こしば そうですね。寺山の母親のハツさんと言う人は、寺山が九条映子さんと結婚するときも反対して、谷川俊太郎や山田太一に間に入ってもらい、やっと結婚することができるのですが、そのあと、2人が住んでいた家の前の小屋に放火をしたり、2人の家の窓に石を投げたり、いまでいうところの子離れができない。そんな人でもあったようです。
山口 もともと寺山は、家が嫌いな人でもあったみたいですね。大人の事情があったのだと思いますが、結局、寺山は母を捨て、九条さんとの家庭も捨て、カタツムリ生活をやめて、ヤドカリ生活にもどる。家を背負って生きていくのではなく、宿を借りて生きていく、ということを言っています。
ただ、九条さんとの新婚時代に書いた詩とか短歌とか俳句は、非常に甘酸っぱくて美しく、憧れてしまうようなところがある。「君の歌うクロッカスの歌も新しき家具のひとつに数えんとす」とかね。いいですよね。そんな歌を聞かされたら女の人はもうクラクラしてしまいますよね。
私も若いときはカミさんに短歌を書いてアプローチしていましたが、寺山のような歌は書けなくて…。カミさんからは「どうして私があなたの短歌を読むの?」と。それで、短歌を書くのをやめてしまいました(笑)。
寺山は、具体的なイメージを使い現実を超えた眺めを見せてくれる。
山口 寺山の短歌は、生活実感ではないところがいいと思うんです。普通、新聞の歌壇に載るような短歌は生活実感ですが、寺山はそうではなく、現実を超えた眺めを見せてくれる。
そこが好きで「なんだこのシュールな空間は」みたいなところがいい。「兎追ふこともなかりき故里の銭湯地獄の壁の絵の山」とか。そういうシュールなことを言う。これは生活実感ではないですよね。そんな銭湯があるわけがない。
ただ、生活実感を超えてはいるものの、非常に具体的なイメージを使って短歌なり演劇なり、映画をつくっている。その手法が素晴らしい。
ほかにも「暗闇のわれに家系を問ふなかれ漬物樽のなかの亡霊」とか。非常にリアルなおもしろいイメージを使って見慣れない風景を見せてくれる。その手法が素晴らしいですよね。その言葉の魅力が演劇にも生きている。
こしばさんの寺山演劇は、基本的に寺山の言葉をいじらない。でもひとつの作品ではなくて、いろんな寺山作品から言葉を取ってくるし、映画だったり、短歌だったり、俳句だったり、寺山自身の言葉をあちこちから引用し、コラージュして寺山をつくるという手法を用いている。
そうして出来上がったものには、「これが寺山だ!」という感動がある。だから風蝕異人街の寺山は何度見ても面白い。札幌に来てはじめて生きた寺山修司に会えたと何度も言っているが、そういうふうに僕は思っています。
映画の話もすると、「田園に死す」では、かくれんぼのシーンからはじまります。かくれんぼの鬼を寺山の分身みたいな子どもがやっていますが、寺山は自分がかくれんぼの鬼をしているうちに、まわりの子どもがみんな大人になってしまったという恐怖を、歌にしたり、エッセイにしたり、いろいろな場所で語っていて、「田園に死す」のオープニングにも使っている。
時計の話しも印象的です。家には柱時計はあるが、母親は腕時計を買ってくれない。柱時計は家の象徴であり、腕時計は持って歩ける時間ということで自立の象徴になるわけですが、そういう面白い対立を用いて、家と自立をシンボルで表現している。
ラストシーンも衝撃的。母と子が二人でちゃぶ台を囲んで食事をしていると、壁がバタっと倒れる。するとそこは現代の新宿のど真ん中、アルタの前という衝撃的な終わり方をしています。
寺山はガルシア・マルケスにも憧れていましたが、ガルシア・マルケスは魔術的リアリズムと言われていて、ただのリアリズムではなく、例えば、海辺に天使が落ちてきて寝ている。その描写が延々と続くとか、ありえない出来事をリアルに描き出すのが魔術的リアリズムで、そのことに寺山はすごく惹かれていましたが、そういう魔術的リアリズムが寺山にも先駆的にあって、僕はそこが寺山の好きなところでもあります。
寺山が40年前に提起した問題を私たちは誰も解決できていない。
こしば 寺山は演劇よりも映画の方が前衛的だったんでしょうかね。あらゆるものをコラージュして、30年も40年も前の日本で新しい手法を試みた。
ただ、それでも最終的には大江健三郎と石原慎太郎にはずっとコンプレックスを持っていたようですね。石原慎太郎とは仲が良かったのですが、大江健三郎のことは最後まで嫌いだった(笑)。「こいつの才能にかなわない」というのがあったのかもしれません。
寺山はだから長編1本しか小説は書いていない。でも、大江健三郎が芥川賞をとった「飼育」を、寺山は映画化したかったようです。天才は天才のすごさを知っている、ということなのかもしれません。
最初の話しに戻りますが、なぜ、いま、寺山なのかと言うと、シェイクスピアもそうなのですが、偉大な人の作品というのは色あせない。
僕は「意味の余白」と言っていますが、これまでこの国では、言葉の裏側にあることをきちんと教えてこなかった。「右側を歩きましょう」とか「人に親切にしましょう」と言っても、この50年の間に、いじめや自殺は増え続け、状況はますます悪くなっている。
こういうときこそ、寺山だけでなく 古典と言うか、古典に近いものにふれる必要がある。彼らは彼らの手法で問題点を鋭くえぐリ出していますが、彼らの問題提起を、私たちは誰も解決できないでいる。
寺山が40年前に提起した問題も同じ。だから僕は、寺山修司とギリシア悲劇にこだわっている。寺山もギリシア悲劇もシェイクスピアも、同じようなことを言っていると僕は思っています。
寺山とは何者なのか。寺山の言葉は現代にどのような意味があって、寺山をよみがえらせるのにはどうすればいいのか。シェイクスピアなどの古典をやるときと同じような意味合いで僕は寺山と関わっています。
あと、寺山は漫画の「あしたのジョー」に出てくる力石徹の葬式をした人としても知られていますよね。寺山は、敗者というか、負けというか、負に対していたわりがある人なのだと思います。
山口 競馬も勝てない馬や、不幸な影がある馬をひいきにしていましたね。人もそう。
こしば 根本的には思いやりが深い人。現象としては、のぞきはするは、傲慢で、コンプレックスのかたまりで、とんでもない人ですが、そういう意味では人間的。だからいつの時代も色あせないのかな、という感じがしています。
今回、札幌演劇シーズンで「青森県のせむし男」を上演しますが、本を読んで来ると、似ても似つかない内容になっていると思います。この作品は本来1時間くらいのお芝居。説教節といって18歳の新人の浪曲師が全部浪曲でやっていく作品で、これはこれで画期的と言われていますが、僕はこれを80分くらいにして、新しい、いまの「青森県のせむし男」をつくり、寺山のエッセンスを伝えたいと思っています。もちろん、セリフは変えていませんが、話の展開は全く違うので、先に本を読んで、見比べてもらっても面白いかもしれません。
2019年5月10日(金)
詩とパンと珈琲 モンクール(中央区北3西18・北3条ビル1F)にて
劇団風蝕異人街 主宰。演出家。劇作家。北海道大学大学院修士修了・研究生修了。1997年に寺山修司作品上演を目的に劇団を旗揚げ。2004年財団法人舞台芸術財団演劇人会議利賀演出家コンクール優秀賞受賞。
札幌大学教授。哲学・神話学専攻。著書に「短歌で読む哲学史」(田畑書店2017年)、「短歌で読むユング」(同2019年)など。文化人類学者の故山口昌男氏の次男。
風蝕異人街「青森県のせむし男」公演概要
タイトル | 「青森県のせむし男」 |
会 場 | 北海道立道民活動センターかでる2・7(札幌市中央区北2条西7丁目) |
日 時 | 2019年 8月10日(土)18:00 8月11日(日)14:00 8月12日(月・祝)14:00 8月13日(火)19:30 8月14日(水)19:30 8月15日(木)19:30 8月16日(金)19:30 8月17日(土)14:00 |
概 要 | この作品は母の息子殺しの因果を描き、一方で嬰児殺しから出発した母子物語である。 その母を恋う青年の思慕は、母親のお墓に見立てられた湾曲した背中のコブに表象されている。その「せむし男」の母親と思われるマツは強姦され子供を孕み、その憎しみから「生まれてくる赤ちゃんの背中にあたしの肉のお墓を立ててください」と仏様にお祈りする。また一方、せむし男は生みの親を恋い慕い探し求める物語でもある。これは誰にでもわかるエンタメ的寺山作品である。 『青森県のせむし男』において、寺山修司は東北の土着性を描くため、思想としての故郷を脱出し、その遺棄を図って還らざる決意を自ら課した。この作品で描かれた寺山の貪欲で清冽な触手とその感覚は、彼の思想と共に寺山の言葉を練磨しているのだ。そしてこの作品は、現代のギリシャ悲劇のごとくに「子殺しのカタストロフィ」で一致している。父は常に死者であり哀れな存在であり、時として軽蔑と揶揄の対象であった。 だからこの物語で母と息子の関係は、結語として今日的な子殺し的惨劇が暗示されているのである。だが、せむし男松吉はまぎれもない不具者であり、先天的に罰せられた一人の息子の象徴としてその笑みによって自分の母親を罰するのである。 劇団風蝕異人街主宰・劇作家・演出家 こしばきこう |
作 | 寺山修司 |
構成・演出 | こしばきこう |
チケット | 一般 3,000円 学生 1,500円 |
Web | 公式サイト |
お問い合わせ | 劇団 風蝕異人街 TEL: 090-8272-4299 Eメール:semushiotoko2019@gmail.com |
この対談、私も至近距離で聞いていましたが、知らなかったことも多く、大変面白かったです。私にとって、1969年2月から3月、大学受験で東京渋谷に1か月ほど住んでいました。天井桟敷がオープン直前だったかと。毎日その前を取っては怪しげな雰囲気だったことを覚えています。その後も、地方から大都会東京に出てきたばかりの人間にとって、その中に入る勇気はなく、今、寺山修司作品を札幌で観られるのは大変嬉しいことです!