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第3回 弦巻流「シェイクスピアの読み方」

第3回目となりました。シェイクスピアの魅力と楽しみ方を紹介する「シェイクスピアの読み方」。

前回で紹介した「シェイクスピアを読んで難しく感じたポイント」は、以下の4つでした。

  1. 登場人物がカタカナの名前で覚えにくい。
  2. 物語の展開がわかりにくい。
  3. 会話が(台詞が)何を言っているのかよくわからない。
  4. 『道化』等、よく分からない存在や文化がある。
このうち、④舞台設定の文化背景がわからない問題、①カタカナの名前が多すぎる問題、②物語の展開が読みづらい問題を取り扱いました。大切なのは、登場人物を自分たちの身の回りにいる「人間」と同じように捉えること、でした。少しはシェイクスピアが身近になったのではないでしょうか。

今回も 弦巻楽団 代表 弦巻啓太さんの解説とともに、シェイクスピア世界を覗いてみましょう。どうぞ楽しくお読みください。

第1回 弦巻流「シェイクスピアの読み方」
第2回 弦巻流「シェイクスピアの読み方」

 

弦巻啓太(つるまき けいた)

弦巻楽団代表。脚本家、演出家。札幌生まれ札幌育ち。

高校時代より演劇を始める。卒業後、友人たちと劇団を結成。8年後独立。外部で脚本演出や、演技指導の講師を各地で始める。2006年より弦巻楽団として本格的に活動を開始。札幌劇場祭大賞をはじめ、数々の賞を受賞。2015年、日本演出者協会主催若手演出家コンクールにて最優秀賞を受賞。

近年は中学、高校への芸能鑑賞公演や、国内だけでなく海外での公演も行う。現在クラーク記念国際高校クリエイティブコース講師。また北海道演劇財団附属劇団札幌座のディレクターも務める。日本演出者協会協会員。

言葉の意味より、口にする意味

さて、一番の難題③だ。

会話がなにを言っているのかよくわからない、と言うのはよく聞く。比喩が多く、回りくどい。主語と述語が遠くかけ離れていて、文意を掴みにくい。比喩をたどるうちにそもそもなにが言いたかったのか、主語は何か、もともと何を例えていたのか(!)忘れてしまう。中高生にとっては馴染みのない文体だ。こんな同級生いない。

文章そのものも違えば、会話の構造が我々の日常と違う。

ポイントを整理しよう。シェイクスピアの作品、特に初期の作品の台詞は「会話」ではなく「詩」である。登場人物が状況の報告や心情の説明に「詩」を詠んでいる訳だ。なんのために? ひとつは、それが舞台表現として美しかったからだ。

シェイクスピアは劇作家であり、役者でもあり、同時に演出的視点も持っていた(当時は「演出家」と言う職業は存在しない)。それは後期の作品の構成の破綻から感じ取れる。演劇の枠を解体し、より刺激的な芝居作りを目指していたシェイクスピア。

そんなシェイクスピアの時代の演劇は、基本青空の元で演じられていた。観客が三方を取り囲む形状の舞台で、照明による変化などない中、観客は役者が語る言葉に耳を傾け、想像の翼を広げていた。舞台上で行われる掛け合い、愛の告白や喧嘩や諍いと言ったやりとりを織り交ぜながらも、それは舞台上から語りかける姿勢が基本だった。美しい言葉で、巧みな比喩で観客を劇世界へ、非日常へといざなう。

(この辺は映画『恋に落ちたシェイクスピア』を見るとその形式を観客がどう受け入れていたかよく分かる。もちろんフィクションなんだけれど、とても腑に落ちる。これは面白いなあ、と。映画全体としてもとても良くできた感動的な作品である。残念なことにR15指定…。)

つまり、我々の生活感覚の延長で台詞を語ろうとしても無理があるのだ。登場人物の心情を理解してもどうにもならない。むしろ、心の表現が「詩」の形をとる「生理」に着目しなくてはいけない。

心の表現が「詩」の形をとる「生理」?

そんな感覚ある?

確かになかなかない。そんな同級生ほとんどいない。

 

シェイクスピアの作品の登場人物は全員が全員詩を口にする。ちょっとした返答も何かに例え、川柳のようである。この比喩の多さに読むのをやめてしまう人も多いだろう。今手近にあった『ロミオとジュリエット』(中野好夫訳)を開いて適当に抜き出してみよう。ジュリエットに「どうやってここに来たの?」と聞かれたロミオの返事。

ロミオ こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました。石垣などでどうして恋を締め出すことができましょう? 力の及ばぬことならいざ知らず、できることなら、どんなことでも恋はする。

お世辞にも「さっぱりした」とは言えない返事だ。しかしこれがシェイクスピア作品の登場人物の生理であり、恋に落ちてメロメロになっているロミオという要素はあるが、自然なのだ。そう、ここでロミオは「恋はなんでもする」とジュリエットに恋の豆知識を教えたい訳では無い。

そのくらい自分は貴方に夢中だ、と言いたいのだ。メロメロ度合いを訴えているのだ。

じゃあ、そう言えば良いのに?

しかし、シェイクスピア作品の登場人物はそうしない。

ここがもう一つのポイント。それは日本語と英語の文化の違いだ。俗に言われることだが、日本語は「どう語るか」が大切な文化であり、英語は「何を語ったか」が大切な文化だからだ。例をあげれば日本語は「愛している」を「どう言うか」が言葉の信憑性を測る基準になるのに対し、英語は「愛している」をどのくらいの大きさ、回数で言ったかが言葉の信憑性を測る基準になるということだ。大きさ、回数、…そして、どれだけ例えたか。比喩、である。

言葉の裏を探る、空気を読む。日本人はそうしたことが得意で、言葉になる前の空気でそれを察知する。察知していると信じる。すべての人間が自分と同じ背景/文化を共有していると信じて生きてきた民族ゆえだ。共有できる前提があるのだから、言葉で何かを足す必要は無い。言葉にする事で差異が発生すれば、共有している前提が目減りする、あるいは壊れてしまうから。

しかし世界の人々はそうでは無い。最初から背景/文化/そして宗教!が違うことが前提である。彼らも空気を読む。言葉の裏も探る。しかし、それはあくまで言葉になってからの話だ。言葉が、テーブルを飛び交った後の話だ。共有できる前提が無いのだから。

 

そのためシェイクスピア作品の登場人物は長い比喩を持って語る。『マクベス』の冒頭、戦場で王様に報告にきた兵士は息も絶え絶え、血みどろになりながら長い、長〜〜い比喩を持って語りに語る。お前!早く看病してもらえよ!と突っ込みたくなるほどに。しかし、その量が必要なのだ。その量が戦場の奇跡的な勝利の奇跡具合を表すのだ。

なので、長い比喩が出てきても怯まなくて良い。その意味内容を把握するのはもちろん大切だが(何に例えているか。上品か、下品か。貴重なものかありふれたものか。高価なものかそうでは無いものか。美しいか綺麗か。)その量を感じ取ることが重要だ。「それだけの長さを付け加えたい動機」が登場人物にはある。そこを、まずは押さえて読む。物語の展開に置いてかれないことをまずは優先しよう。

 

何故なら。

 

ここで思い切った発言をする。勇気を振り絞って(?)。日本語と英語の文法の違いについて考えよう。文法の、構造上の違い。結論を先に言う英語と、最後に来る日本語の違いだ。

それを踏まえて、一度シェイクスピアの台詞を「英語で」想像してみよう。正確である必要はない。なんとなくで良い。原文がある人は原文を見ても良い。結論がまず話され、それを修飾する言葉が後に続く。聞き手は結論を受け反応し行動を始める。このスピード感をイメージしてみよう。

もしかすると、だ。

もしかすると、

 

「比喩はちゃんと聞いてもらってないかもしれない」。

 

そんなわけない!という人もいるだろう。そうかもしれない。しかし、一度想像してみるだけでいい。全てじゃなくても、ある種の台詞の比喩は「聞かれてないかもしれない」。だからこそ

比喩の中身より「比喩で伝えたい動機」に目を向けようというわけだ。

もちろんシェイクスピアの見事な比喩や巧みな形容は美しく魅力的だ。深い。思わず唸ってしまう。だからと言って、ありがたがる必要はない。我々に響いている言葉の美しさを、登場人物が受け取っているかどうかは別問題だからだ。

比喩に捉われるより、その比喩を通して伝えたい意思や感情の動きに目が向くようになれば、登場人物たちの行動がぐっと分かりやすくなるだろう。その比喩の壮大な羽衣を剥ぎ取った下にあるドラマは、前段述べたように高尚でも崇高でもなく、民衆の心を掴むべく数多の伝説や物語を元ネタにした娯楽活劇なのだから。

 


 

日本語と英語の文化の違いも、シェイクスピアが難しいと感じる要因の一つとなっているようですね。肝心なのは、その長いセリフひとつひとつの意味を理解するよりも、何故それだけ長いセリフを言う必要があったのか、を考えること。

比喩は詩として楽しんで、物語の展開を追って楽しみましょう。少し難しく感じますが、まずは1作トライしてみたら良いかもしれません。

次回は最終回、実際にシェイクスピアを演じてみて楽しむ方法です。お楽しみに!

 

今回登場したシェイクスピア作品

  • ロミオとジュリエット
  • マクベス

 

 

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